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| 希望とインスピレーションの物語(2007年4月) |
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| 作者 Administrator | |
| 2007/11/26 Monday 00:16:52 JST | |
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最初に、すべての膵臓がん患者に贈る言葉からぼくの話を始めたい。 「希望は必ずあるから、決して見うしなわないでほしい!」
ぼくはある製薬企業で、32年間MR(医薬情報担当者)として働いてきた。そのうち20年間は乳がんや前立腺がんや肺がんの患者さんたちに教育や治療方針 の説明をする仕事だった。ぼく自身は、一番の親友が1998年に膵島細胞がんという病気にかかったこと以外、膵臓がんについてはまるで知らなかった。 4月6日の朝、ぼくは朝早く起きてシアトルのがん専門病院で行われた臨床カンファレンスに出席していた。病棟に走って行って知り合いの看護師と面談したら、「あら日焼けしたわね、休暇でも取ってたの?」とたずねられた。鏡を一目見ただけで、何かが自分の体に起こっていることがわかった。そこには黄疸の兆候がはっきり映っていた。2週間後、2度のCT、幾度もの血液検査、ERCP検査、そして腹腔鏡検査を経てぼくの診断が確定した。膵頭部がん、肝臓に一カ所転移。手術はできず腫瘍内科医を受診しなければならなかった。ぼくの場合は上司にがんへの理解があったから、他の膵臓がん患者の方々に比べると幸運だったかもしれない。友人達や医師達の助言もたくさんあった。そして妻。妻はぼくが生きのびるためなら、何だってやってくれた。 がんセンターの化学療法医はぼくに、彼が膵臓がんを選んだのではなく、膵臓がんの方が彼を選んだのだと語った。毎年、200人を超える膵臓がん患者が彼の患者となる。ぼくの化学療法は2005年5月、ゲムシタビン(ジェムザール®)とドセタキセル(タキソテール®)の組み合わせで始まった。ぼくは毎日仕事でがん病院に通っていたが、患者として点滴ラインの端につながれることは気が滅入るような経験だった。 ぼくたちは前向きな気持ちで、抗がん剤治療を始めた–どんな時も「笑いは最良の薬」の精神で闘った。ぼくの体は化学療法によく耐えた。治療後数日間、ちょっと節々が痛むぐらいだった。ぼくは現在50回を超える点滴を受けたが、今でも十分耐えられているので、看護師の一人はぼくのことを「キモ(化学療法)界の雄」と呼んだほどだった。そしてぼくの妻にはネイティブ・アメリカンの血が入っているので、妻はみんなに「キモサベ」と言われている。(テレビ映画「ローンレンジャー」では、相棒のトントからローンレンジャーは「キモサベ」と呼ばれていた。「キモサベ」とは、インディアンの言葉で「誠実な友達」という意味だ。) 2006年5月、ぼくの化学療法1周年記念日に一番嬉しいニュースが飛び込んできた。ぼくは化学療法によって「完全寛解」したのだ。ぼくの膵臓のがんは消えてしまった。これは本当に珍しいことで、個人的には奇跡が起こったのだと思っている。ぼくとぼくの周りの人々の祈りが神に通じたのだと思う。 だから、ぼくは何かこの病気のことでもっと働かなければならないと思った。ぼくはPanCANの患者・家族ネットワークのボランティアに志願し、人々がこの病気をもっとよく理解できるように、そして希望を持てるように働くことになった。ぼくと妻は過去2回のロサンゼルスPanCANシンポジウムに出席した。膵臓がん治療の新しい進歩を聞き、他の生還者や家族たちと経験を共有することは、胸がわくわくするような体験だった。2005年のシンポジウムで出会った人は、ぼく自身のヒーローになった。その人は72歳の「若さ」で人生を存分に楽しんでおり、膵臓がん転移から4年目の生存を果たしていた。ぼくたちは今月ワシントンDCで他の人と落ち合い、膵臓がん研究資金をもっと増やしてくれるように国会議員に向けてロビー活動をする予定だ。 ぼくらは治療の合間にハワイやモンタナ州、イエローストーン国立公園、プエルトリコ、そしてラスベガスにまで旅行することができた。妻のメアリーとぼくは来月イタリアで結婚30周年を祝うことになっている。 長々といいことばかり書いてしまったが、治療の間にはつらく落ち込んだ日もあったし、またぼくが完治したわけでもないことは分かっている。でもぼくは毎日を天からの贈り物として受け取ることにしている。これまでのところ、どの日も素晴らしい贈り物だった。 |
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