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| 希望とインスピレーションの物語(2005年1月) |
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| 作者 Administrator | |
| 2007/11/26 Monday 00:27:47 JST | |
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希望とインスピレーションの物語 ペギー・K サウスダコタ州バレースプリングス在住
「あなたの余命は2ヶ月です…家に帰って、身辺整理をしてください。」これが、わたしが2001年7月に聞いた言葉でした。その数日前には、ゴルフトーナメントで18ホール回ったところだったのです。ある夜、食中毒のような症状でそれは始まりました。数日経っても少しも良くなりませんでした。友人に目が黄色くなっていると指摘されてわたしは病院に行きました。すぐに「がん」の宣告が下りましたーそれもただのがんではなく、肝臓に転移したステージ4の膵臓がんだったのです。わたしが最初に思ったことは、「よしきた、それならこれを治してしまおう」ということでした。すると担当医に「あなたは分かっていませんね。これは手術もできないし治らないのです」と言われてしまったのです。わたしの余命が2ヶ月だと聞いたのもその時でした。痛みと黄疸を軽くするために、脇腹に管を刺して溜まった胆汁を抜く処置が行われました。管の先にはボトルがつけられ、わたしは一生それをつけたままになると告げられました。担当医は、家に帰って花が咲くのでも見ていてください、と言いました。
家族で話し合って、セカンドオピニオンをもらいに行くことに決めました。妹と介護人が別の病院に付いてきてくれました。そこでも診断は同じでした。わたしは医師に、あとどのぐらい生きられるのか尋ねました。すると医師は、「あなたの命に期限を付けることはできません。それは医者ではなく神様の決めることですから。」と言ったのです。その時初めて、わたしは自分が希望を授けられたことを知りました! それからその病院では、もしわたしがこの病気と闘うつもりなら、一緒に闘ってくれると言うのです。医師からは、とてもきつい治療計画についての説明がありました。それは、FUDR(フロクスウリジン)とロイコボリンを5日間、マイトマイシンと白金製剤を1日動脈から投与する治療を即座に開始するというものでした。わたしは、全身の感染症と肺の虚脱と闘うために、26日間も入院していました。退院してすぐ、5日間の化学療法と血管内治療に戻りました。この病院では胆管ステントを入れてくれたので、ボトルを下げたままの生活から解放されました。検査をするたび、腫瘍は小さくなっていきました。5ヶ月たつと、血小板数があまりにも下がったのでこれ以上この治療を続けられなくなってしまいました。そこでわれわれはプランBに移行しました。これは、経口抗がん剤(ゼローダ)を使うものでした。数ヶ月のうちに、腫瘍は画像上から見えなくなりました。わたしは2002年11月以降は抗がん剤を止めています。いま内服している薬は、プリロセック(胃酸抑制剤)とビタミン剤です。
わたしは今でも楽しくフルタイムで働いていますし、乗馬をしたり、キャンプに出かけたり、ゴルフや旅行をしたり、友人や家族と過ごす時間を楽しんでいます。家族と友人達からの愛と支援と祈りを常に感じていたので、ポジティブな気持ちを保つことができました。担当医からは、何か目標を決めることを勧められました。2002年10月に、PanCAN(行動する膵臓がんネットワーク)のことと、「スター(希望の星)と過ごす夕べ」のことを耳にしました。そこでわたしの最初の長期目標は、次の誕生日まで生きることの他に、このシンポジウムに参加することになりました。自慢になりますが、わたしは2003年と2004年のシンポジウムに参加できたんです! アメリカ中から集まった膵臓がんを克服した人々と話すことはとても良い経験になりました。今も、わたしは毎日自分の幸運に感謝して生きています。わたしは最近PanCANのチーム・ホープのコーディネーターになりました。他の人に助言するとすれば、セカンドオピニオンを受けること、ポジティブな気持ちを保つこと、大きくても小さくてもよいから何か目標を決めることが大切だと思います。どんな時も、希望はあるということを覚えていてください。それから、リーアン・ウォーマックの歌のことも。「ダンスを見ているだけの人も、実際に踊ってみる人もいる…あなたはどちら? 踊ってくれるといいのだけれど。」
希望とインスピレーションの物語 ミッキー・S、アリゾナ州スコッツデール
1999年早々に4回もCT検査を受けたにもかかわらず、私の右足の付け根の辺りのひどい痛みの原因はさっぱりわかりませんでした。ステロイド注射だけが頼りでした。その年も後になって、内科のかかりつけ医のところに毎年の健康診断に行きました。先生に私の痛みの話をしますと、先生は「わたしの機嫌をとるつもりで」もう一度だけCT検査を受けてみてほしいと言われました。翌日、先生はうちに電話をかけてきて私の病気はすい臓がんだと言いました。私は衝撃を受けました。「すい臓って何をしているところですか?」と私は尋ねました。先生は説明をしてくださいました。
私は1999年8月にウィップル手術を受け、すい臓の頭部にできたすい島細胞がんを切除しました。10日後にもう一度手術を受けることになりました ー 私の体の中の「管のつなぎ目」が外れてしまったというのです。この2回の手術の間に、私はそけい部にあったひどい癒着の大部分を取り除いてもらうことができました。これは1988年に私が受けた卵管がんの治療の結果おこったものでした。もともとの右足の付け根の痛みはこれでよくなりました。
私は何も食べることも飲むこともできず、ただ栄養剤の点滴だけで32日間入院していなければなりませんでした。私の体は生まれたばかりの子供と同じぐらい弱くなってしまいました。主人の励ましとチキンスープ、マッシュポテト、それからブースト(栄養剤)のおかげで、私の体力は徐々に戻りはじめました。退院したときにはおなかに長さ20センチ深さ5センチの傷が開いたままだったので、1日2回看護婦さんがうちに来て傷を消毒してくれました。傷がゆっくり治っていくのを見るのは、人体の不思議をまざまざと思いおこさせる出来事でした。
4ヶ月かけて回復して体力をつけたあと、私はスコッツデールのメイヨー・クリニック病院のボランティア活動に復帰しました。私はそこでチームリーダーをしています。
手術の後消化が悪くなってしまったので、私は消化器内科医にかかって消化酵素とモチリウム(ドンペリドン)を処方してもらいました。私はこの薬を毎食前とおやつの前にのんでいます。
私のおすすめは、主治医とチームを組むことです。医者の使う「業界用語」が分からなかったら分かるまで質問しましょう。それから検査結果と治療結果のコピーはいつももらうようにしましょう。
11月、私はPanCANの「希望の週末」の集会に出席しました。シンポジウムにも参加しました。ためになる話をたくさん聞きました。他の生存者の方々とお話ができたのもよかったです。そして最近、主人と私は私の58歳の誕生日をお祝いしたところです。
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