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希望とインスピレーションの物語(2003年4月) プリント メール
作者 Administrator   
2007/11/29 Thursday 13:54:07 JST

希望とインスピレーションの物語

トッド・モロー(テキサス州キャロルトン)、2003年4月

 

ぼくの61歳の父、ミズーリ州ポプラー・ブラフに住んでいるボブは、何をやらせても桁外れの成果を出すのだが常に謙虚な姿勢を崩さない人間だった。ボブのモットーは『人生で大事なのは成功の数より成功の質だ』というものだった。父の世代の人間はたいていそうだが、父は自分の仕事と家族を何より大切にしてきた。さて今度は、父自身がわれわれ家族の一番大切なものになる番だ。

 

ボブは手術できない膵臓がんの患者としては桁外れの長期にわたって生存しているサバイバーだ。父がその残酷な診断を受けたのは、2000年4月のことだった。その時の余命宣告は3ヶ月。父はその恐ろしい知らせをひと月近くも自分の胸にしまっていた。家族の胸が痛む知らせをできるだけ後にしようという思いからだ。2000年の5月、母の日の翌日、父はついにすい臓がん末期の診断を受けたことを話し家中が悲しみの底に突き落とされた。すい臓の尾部の腫瘍は12.5cmもあり、すぐにも転移するだろうということだった。告げられた余命はあまりにも短く、ボブも家族の皆も、がんの犠牲者ならたいてい同じだと思うのだが、無力感と絶望でいっぱいになってしまった。

 

ぼくと妹のテリーは、半狂乱になりながらも集中して、インターネット上ですい臓がんの治療法を調べつくす決心をした。ネットの中のあらゆる場所を、すみずみまで、限りなく‥‥しかし結局膵臓がんと戦うための桁外れの武器となるかもしれない治療を見つけたのは、父だった。2000年6月、父は9NC(ルビテカン)の臨床試験に適格であることがわかり、参加患者として選ばれた。それは5日間内服をして2日間休むというものだった。治療を始めてすぐ1ヶ月後、CT上父の腫瘍の増大が止まったことがわかった。地平線の向こうに、新しく生まれた希望が顔を出しはじめた。それとともに、退職後のドリームホームの計画も持ち上がった。

 

残された時間はほとんどなかったが、父は43年前に入手していたミズーリ川大湿原の端にある11エーカーの土地に、夫婦ふたりのためのカントリーハウスを設計することに決めた。父の桁外れの情熱と心と心の強い結びつきが、仕事に行きながらこの大冒険に挑む父の道しるべとなった。父はこの戦いがどれほど波乱に満ちたものになるかよくわかっていた。にもかかわらず、全身でこの流れに飛びこんだのだ。父は3ヶ月で建てますという業者を見つけた。建築は2000年6月に始まった。父は15年間営業責任者として勤務してきたメンフィスのJ-ラインポンプ株式会社(今のアメリカン・マーシュ)への通勤を続けた。同時に父は125エーカーの農場の賃貸契約もまとめた。鮭が上流をめざして泳ぐように、父は自分の夢の卵を産みつける決心をしたのだ。父の一番の心配事は、自分のすい臓がんがどうなっているのか、そして今後どうなっていくのかということだった。すぐ次の心配は9NCの副作用のことだった。誰も気づいていなかったが、このとき時間は父に味方してくれていた。

 

残念なことに、家の建築には思ったより時間がかかってしまった。終わったのは2001年5月だった。いろいろな技術を利用して家でも勤務できるようにしたので、父は2002年3月まで生産的に働きつづけることができた。父の農場はその間も利益を上げていた。

 

膵臓がんの治療とは無関係なことだが、父は2002年3月に脳卒中と脳の動脈瘤を発症した。医療チームは奇跡的に父を治療して昏睡になるのを防ぐことができた。母は4月18日の父の61歳の誕生日の前日まで病院の父のベッドの隣にいた。孫たち(アダム、アンドレア、ローガン、ケイティ、テイラー、イーサン、スキラー)はふんだんな愛情をもってこのいつ終わるともしれない不安定な時期に身を捧げてくれた。孫たちの応援と、母のつきることのない愛と献身的な介護のおかげで、父は誕生日を皆と一緒に家で迎えることができた‥‥そして今日まで父は持ちこたえている!

 

父を取り戻すことができ、家族一同感謝の気持ちで一杯だ。ぼくはカマスのように勇敢に闘った父をたたえたいと思う。身体に不自由なところはあるが、父の生活の質は61歳としては十分なもので、父と一緒に過ごせることはわれわれ家族の喜びだ。今、父は膵臓がんの治療はしていない。われわれは皆、父の膵臓の腫瘍が大きくならないことを願っている。

 

 

 

希望とインスピレーションの物語

 

デビッド・キンブロ、ジョージア州パウダースプリングス

 

妻のジョーイは、2002729日にステージ3のすい臓ガンと診断されました。その後3週間で妻はひどい黄疸を発症し、疲れきって強いかゆみが出ました。妻はウィップル手術ができることになり2002年9月3日に手術の予定が組まれました。手術の1週間前、がんが胆管をふさいでしまい大変具合が悪くなった妻は入院してステントを入れてもらうことになりました。ステントが入ったことで、手術の準備ができました。

 

手術は2002年9月3日に行われました。11時間かかり、すい臓の70%、胃の3分の1、十二指腸、それから胆のうを取りました。残った胃は空腸につなぎ合わされました。妻は幸運なことに輸血を必要とせずまたインシュリンを作れるだけのすい臓が残っていました。病理検査結果は転移なしでした、しかし6個検査したリンパ節のうち3個は陽性でした。病院にいる間大きな合併症はなく、回復もとても早かったです。

 

妻は21日間入院しましたが、その間の看護は素晴らしいものでした。退院のときには食事制限もなく、実のところ帰ってくる途中にビッグマックを買ってくれと頼まれるほどでした(家に着く前に妻はなんとその4分の3を食べてしまいました)! ジョーイは胃チューブと空腸チューブを持って家に帰ってきましたが、胃チューブをたった一回使っただけでした。

 

手術の6週間後、ジョーイは抗がん剤と放射線を始めました。放射線は週に5日5週間、抗がん剤連続注入(週7日24時間)が5週間でした。ガンの代替治療も使いました。これは効果があったと思います。

 

妻は追跡検査として胸と腹部、骨盤のCTを受けましたが、結果はすべてガンの形跡なしでした。現在、妻はすい臓ガンからの「寛解」状態にあります。

 

私たちはこれから、このひどい病気と闘っておられるみなさんを助ける旅に出るつもりです。みんなに話して、頼まれれば自分たちの体験を公の場でも発表したいと思っています。私たちは感謝の気持ちで一杯です。毎日を大切に生きることを学びました。

 
 

 
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