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| 希望とインスピレーションの物語(2003年10月) |
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| 作者 Administrator | |
| 2007/11/29 Thursday 13:55:43 JST | |
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希望とインスピレーションの物語 テリー・V・エイクロン、オハイオ州
私は夫スティーブの記念の品として、紫とラベンダーのブレスレットをPanCANから買いました。夫は1999年の秋にすい臓がんと診断されたのです。
夫の症状は1999年の4月にひどいおなかの痛みとして始まりました。ベナドリルやザナックスという薬が処方されましたが、どちらも痛みには効きませんでした。CTと超音波検査を受けると、すい臓とその周りに腫瘍があるのが分かりました。担当医は超音波内視鏡検査をしましたが、何も分かりませんでした。この間夫の体重はずっと減り続けていました。
1999年9月、担当医は夏休みの予定をキャンセルするように言いました。外科医はウィップル手術をしましょうと言いました。内視鏡をもう一度やった後、夫のウィップル手術日は1999年10月20日と決まりました。手術はうまくいき、夫はよく頑張りました。そしてウィップル手術の次には化学療法と放射線療法をすることになりました。
すべてはうまくいき、そして2000年6月に受けたPET検査では、腫瘍はまったく認められませんでした。
2003年9月12日は私たちの結婚50周年でした! このブレスレットをして、夫が健康でがんを克服できたことに感謝したいと思います。
希望とインスピレーションの物語 ステーシー・K、カリフォルニア州ロサンゼルス
父がすい臓がんと診断されて2年、父の生還の話をこうして書くことになるとは思ってもみませんでした。今回私たち家族の話を患者の方々やご家族の皆様にして希望とインスピレーションを分かちあうことことができ、とても嬉しいです。
私が「すい臓がん」という言葉を最初に聞いたのは8歳の時でした。当時70歳の祖母が、この病気と診断されて9ヶ月後に亡くなったのです。祖母の死はとても悲しい出来事でしたが、でも人は生きていかなければなりません。私の人生にすい臓がんが想像もしなかったほど強い影を落としたのは、2001年のことでした。すばらしい父、ルーが53歳ですい臓がんと診断されたのです。私はその瞬間を忘れることができません。私はオフィスの自分の席に座っていました。両親が私に電話をかけてきてその知らせを告げたのです。私は何もかも置いて両親の元に走りました。腫瘍内科医は父の余命は6ヶ月だと言いました。母のメラニーと弟のジェフ(その時21歳でした)と私はショックを受け、打ちのめされ、恐怖におののきました。私は25歳で自分の父を失うという現実の可能性が出てくるとは思ってもみませんでした。私の結婚式で手を引いて歩いてくれるのは誰? 車が故障したら誰が助けてくれるの? 誰がつらいときに慰めてくれるの?
それからは毎日がパニックと恐怖の連続でした。母のことも気がかりでした。母は外側は強そうに映っていましたが、心の中では動揺していました。私たち家族は一つになってお互いを支えようとしました。私たちは前向きな気持ちを保つために、そして大切な事柄を決して見失わず、父が健康で強くいられるように全力でがんばりました。驚いたことには、家族の中で一番父がしっかりしていて、私たちが直面したこの戦いを受けて立ち、勝ち抜く気力があったのです。父が化学療法を始めた時、私たち家族はみな父の側にいました。それいらい、日曜日の夕食を一緒にとる習慣に新しい意味が生じました。
すい臓がんと診断される前、父はめったに病気にかからず、運動もしていたしタバコも吸わず健康的な食生活を送っていました。それから胃のキリキリするような痛みと疲労が父を襲い、過敏性大腸症候群と診断されたのです。幸運にも、母はその診断に同意せずCTを撮影するように強く主張しました。それで手術不能のすい臓がんが見つかったのです。恐ろしい統計の値を読む以外私たちはどうしたらよいのか分からなくなってしまいました。私たちは父がかかった腫瘍内科医が最新の治療を知っているものと信じていました。7ヶ月の治療の後抗がん剤が効かなくなると、その内科医は「これ以上できることはありません」と言いました。母はそんな言葉を受け入れませんでした!
その頃、私はPanCANとジョンズ・ホプキンス病院の掲示板を見つけました。そこで抗がん剤を数種組み合わせて使う腫瘍内科医がいることを知ったのです。母はすぐにその医師に電話しました。2001年12月のことでした。4種類の化学療法を順繰りに使っているうちに、父のCA19-9は下がりはじめ腫瘍が縮小してきたのです。2002年9月、父はウィップル手術に臨みましたが、ケロイド組織があったため途中で中止になってしまいました。驚くことに、その時活動中のがん細胞は全く認められなかったそうです。5ヶ月間化学療法を休止したところ、2003年5月にCA19-9の値が上昇に転じました。父は多剤化学療法を再開しました。今回もまた、数値は下がってきています。CTでは悪いところはなく、父の態度も前向きです。
「すい臓がん」と「幸運」の両方の単語を一つの文の中で使うことは馬鹿げて聞こえるかもしれません。でも父は幸運だったのです。父は始めとても具合が悪かったのですが、どんどん良くなってきています。父は体重が減ることもなく食欲もあり、強い痛み止めも要らずステントも必要としませんでした。黄疸になったことも無かったのです。治療の副作用は予想したよりもずっと軽いものでした。
両親は、父がこれほど良い状態でいるのは本当に運がよかったと感じています。両親は自分たちの知識を他のすい臓がんにかかった人たちに伝えて支援する活動を始めました。両親からの励ましは、他の患者が積極的な治療に臨んだりセカンドオピニオンを受けたりするのに役立っているようです。父の主治医に診てもらうために他の患者がロサンゼルスに来る時には、一緒に会って話をしたりしています。私とジェフは、両親のことをとても誇りに思っています。
それから母は父のために野菜ジュースをしぼって、毎日飲むように強要しています! 野菜ジュースは父の健康増進に効いているようなので、うちでは『母の抗がん剤』と呼んでいます。
私とジェフは、すい臓がんが遺伝する可能性についてをよく分かっているつもりです。もちろん心配はしていますが、その心配が自分たちの毎日の生活に影響しないように心がけています。ジョンズ・ホプキンス病院にはすい臓がん患者の登録制度があるので、そこに自分たちのデータを送ろうと思っています。父の主治医には、血液サンプルを送るといいのではないかと言われました。
私たちはこのめちゃくちゃな病気に対するより良い治療法、早期発見法、それから完治の方法が見つかるように日夜願い、祈っています。それと同時に、私たちはすい臓がん研究のために募金を呼びかける集会に参加し、人々にこの病気についてもっと良く知ってもらうために活動しています。2001年6月、私は『がんのために声をあげる会 (OVAC)』に出席して、PanCANともっと研究資金を増やしてもらうためにアメリカ上院議員たちの前で話をしました。私は決して闘いを止めません。
2年前、私たちの人生は永遠に変わってしまいました。今ではこれが私たちの人生です。私たちは父が生き続けていけるようなことはどんなことでもするつもりです。父の存在は心底私たちを勇気づけてくれています。お父さん、あなたを愛しています。私が作ったホームページ http://www.geocities.com/Stacikmiotek/ にも来てください。
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