Letswin RET fusion

まれな膵臓癌のための臨床試験
A Clinical Trial for a Rare Pancreatic Cancer

著者:アリソン・リップマン・クバン(Allison Lippman Kuban)

2019年1月17日

私は31歳で、ホテルマネジメントでのキャリアを重視し、ゼネラルマネージャーに昇進したばかりで、ほぼ1年間「その人」とデートしていました。

2017年の春は仕事で忙しい時でした、そして、私は成功するために、やる必要がある仕事に集中していました。左の脇に痛みがでてきて、それが続くようになったとき、私はそれが単に「ストレス」であると考えました。また、より多くの水を飲む必要があると考え、グルテン、乳製品、肉などを食事からカットしました。私のスケジュールから医者にいく時間をかけずに、何が問題なのかを知るためにできることはすべてやりました。しかし、何をしても痛みは消えず、痛みは来ては去りを続けていたので、私は医者に行くことにしました。

医者との予約の日は、あまり痛みを感じませんでしたので、それなのに医師に行くことにした自分にいらいらしていました。私の医者はCTスキャンをオーダーしました。その結果を知るために翌週戻ったとき、女医は何もなかったと言いました、そして私の不安とストレスを助けるためにプロザックを飲ではどうかと提案してきました。私はそのCT報告書を受け、それを読み、その中に「腫瘍」という言葉を見ましたが、問題ないと医者が言ったので悪いことではないと考えました。しかし不安ではなかったのでプロザックは服用しませんでした。代わりに私は消化器専門の医師に会いに行きました。その日は痛みが激しく、とても苦しんでいました。消化器専門の医師は翌週に大腸内視鏡検査を予定してくれました。私は待つことを嫌いましたが、この医師を信頼し、彼なら何が悪いのかを見つけくれることを確信していました。

しかし、痛みは激しくなり続けました。激しく汗で出て、食事ができず、眠れず、そして大腸内視鏡検査を待つことができませんでした。検査が予定されている前の月曜日、私は年内のレビューのためにその日にプレゼンテーションをすることになっていたので早く仕事場に入りました。私の体調がよくないことに気づいていた上司の近くにいました。それまで私は数回、痛みのために仕事を早退し、家に帰っていました。その日、私が汗をかきだして集中できず、痛みから気分が悪くなったことを上司の一人が察知し、彼女は私を家に送ってくれて、痛みがそれ以上悪くなったら救急に行くように言いました。私は、待っていれば痛みが解消すると思い、救急に行く必要などはなく、このプレゼンテーションに何週間も取り組んできて、それを乗り越えたいと思ったことを覚えています。しかし、私は彼女が私を家まで送ってくれて横にさせてくれたことに感謝していました。

私が家にもどった後、ベッドの中で気絶するだろうと思ったくらい痛みは悪化しました。私はエリック(当時の彼氏)に電話をし、何が起こったのか、そして救急に行く必要があるかもしれないと話しました。私は父親にも電話をしました。父親は、彼氏に連絡し、家にもどったら私を連れて病院に行くように伝えてくれました。

救急に着いたときはそれほど痛みを感じていませんでした。血液検査、超音波検査を受け、自分の健康に関する質問に答えました。私の母親が病院に来てくれて、私たちに加わわりました。救急医が来て「肝臓に病変がある」と言ったとき、母親の顔が曇り、落胆するのを見ましたが、それが何を意味するのか知りませんでした。私はこれまで「病変」という言葉を聞いたことがありませんでした。私は病室に連れて行かれ、その夜眠るのを助けるために鎮痛剤のIVをいれました。病変?入院?何が起こっているのかわかりませんでした。

■最後に診断

翌日、生検を受けました。父が病院に会いにきたので、私のおかれた状況が深刻であることを知りました。私は少し気分が良くなり始め、ホールを歩いて少し食べました。私の目標は、私の誕生日を祝うために、間に合うように家に帰ることでした。私の母の電話にテキストが表示されるまで、腫瘍を治療するフロアにいたことに気づきませんでした。私はがっかりしました。癌にかかった?木曜日になると医者は私には神経内分泌癌があり、治療として月に一度の注射が必要だろうと言いました。私はそれなら大丈夫だと思いました。私は非常に多くの質問をしましたが、彼は私に「一度に一つの出口からでるしかできない」と言い続けました。

私はついに家にもどることができ、私の家族、エリック、そして彼の家族と私の誕生日を祝いました。しかし、その日、腫瘍専門医から電話を受けました 。他のスキャンが戻ってきたので、彼は私と私の家族に話したがっていました。私は私の誕生日であると彼に言いましたが、その日の午後には腫瘍専門医と会っていました。

私の膵臓にある腫瘤は神経内分泌癌ではありませんでした。それは腺房細胞癌という、もう一つのまれな形の膵臓の癌でした。私に聞こえたのは化学療法のことだけでした、私の髪は2回目の治療の後に抜けるでしょう、そして残りの説明はもやっとして、わかりませんでした。私の両親は大丈夫だと私に言い続けました、そして、両親は私のためにそばにいるから安心してと言いました。

■セカンドオピニオン

エリックのお父さんは医者です、そして彼を通して私はテキサス大学サウスウェスタン・メディカルセンター(テキサス州ダラス)に行き、Shaalan Beg博士にセカンドオピニオンをしてもらうことにしました。Beg博士は癌の病期についてまず説明し、私の癌は肝臓とリンパ節に転移しているのでIV期であると言いました。化学療法の治療計画は、胸部にポートをつくった後に始まり、2週間に一回投与されることになりました。

その医師との面談についてはちょっとぼやけていて、よく覚えていません。両親と一緒に部屋を出て、廊下で倒れたのを覚えています。私は泣きました。両親は私が一人ではないことを私に思い出させてくれました。私は癌にかかったことが悲しいとか、また怒ってもいませんでしたが、私は家族と彼氏を落胆させた気がしました。彼らは私と一緒にこの困難に耐えなければなりませんでしたし、そして私はこの旅が私たちをどこへ連れて行くのか知りませんでした。

■治療と遺伝子検査

私の化学療法は、5-FU、ロイコボリン、イリノテカン、およびオキサリプラチンを含む多剤の併用で行われました。オキサリプラチンは私を非常に病気にしたので、私は14ラウンドの化学療法を受けましたが、10ラウンドの後、オキサリプラチンは中止になりました。 2週間ごとに病院に行き、48時間着用していたポンプを持って行きました。私はひどい副作用を抑えるために約10から15種類の薬をいつも持っていました。これらには、Neulasta注射、カリウム、吐き気止めパッチ、モルヒネ、Compazine、Ativan、Phenergan、Zofran、Zoloft、Xanax、Miranol、そして、化学療法からくる口内炎に対処するための特別なマウスウォッシュと歯磨き粉が含まれていました。私はどこへ行くにも、薬の入った小さな薬袋を持っていきました。

私は10日中、9日は気分が悪く病気でした。そして、私は徐々に枯れていきました。髪の毛が抜け、目から輝きが消え、そしてすべての体力を失いました。私は4歳の甥を抱き上げることさえできず、私のハーはを完全に壊われました。甥っ子は私に「アリ叔母様、今日は気分どうですか?」と尋ねてきました。私がやってあげたかったのは、彼を抱き上げて、「はい、気分よくなったわよ」と言うことでした。私のボーイフレンドは私の5回目の治療の後、私にプロポーズしてくれました。彼は私をとても信じていて、とても希望をもっていたので、私は戦い続けなければなりませんでした。しかし、抗がん剤治療のせいでとても病気だったとき、私には「生活の質」はありませんでした。私はからだを休めることに必死でしたし、母にさえ「化学療法なしでどのくらい生きることができるかしら?」と尋ねたりました。

治療開始時にBeg博士が私の生検を使い遺伝子検査を依頼してくれました。驚いたことに、遺伝子検査の結果、RET融合という遺伝子変異が発見されたので、テストセンターはBeg博士を呼びました。私はBeg博士が「何かが見つかるとは限らないので、電話をかけることはめったにない」と言ったのを覚えています。彼はまた、特定の遺伝子変異を標的とする薬の臨床試験があるとも言いました。

私達がRET融合遺伝子変異についてわかった後、私の母はヒューストン市のMDアンダーソンがんセンターに電話しました。私は1月にそこに行き、今まで見た中で最もうれしそうな顔をした医者であるVivek Subbiah博士に会いました。彼はRET融合遺伝子変異を対象とした試験薬が効くだろう、私の髪が伸びる、私が結婚する、そして腫瘍が縮小するだろうと確信していました。それは自信を持つには沢山すぎるほどのことでしたが、私はエリックと両親の目に希望と輝きを見ました。私はこれを試して化学療法をやめなければならないと確信しました。

■臨床試験における希望のある生活

私は2018年1月にMDアンダーソンで臨床試験を開始し、それはまだ続いています。製薬会社は、私が治療のためにヒューストン市へ行く旅費、薬代、臨床試験に関連して私が負担する費用を支払ってくれます。私の腫瘍は40%近く縮小しました。私は4月に結婚しました。そして私は甥っ子を抱き上げることができるようになりました。

私は薬物による身体的な副作用は本当にありませんでした。しかし、私は常に感情的な闘争をしていました。私は去年、すべての化学療法の治療を受けようとしているだけで、すべてについて感情的には死んでいました。そして今、すべてが戻ってきて、私はそれらの感情を処理しています。書くことは本当に心の助けになりましたので、今度、私は本を書きたいと思います。

私は今人生に希望を持っています。そして私は自分の物語を語ることで力を得ました。そしてうまくいけば、他の人々にも希望を与えることができればと思っています。私の医者が私に言ったように、あなたはすべてについて、一度に一つの出口(選択肢)を選ばなければならない。

 

 

(Source:Survivor Story-Let's Win Lustgarten Foundation)

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<免責事項>この医療記事は、サバイバーの経験を紹介する目的で書かれています。特定の治療法や薬の使用を推奨するものではありません。ご自身の病状については、担当医とよく話し合ってください。このウェブサイトの情報を利用して生じた結果についてPanCANJapanは一切責任を負うことができませんのでご了承ください。

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